思い出すのです
以下、文章は2年前のブログに書かせて頂いたものの再掲載です。同窓会などのシーンを店舗でたくさん目にするからでしょうか?年始によく思い出す、高校時代の話しです。 思い出すのです。
高校生の頃、私の母は授業料を毎月私に手渡しで渡してくれていました。クラスの友達はみんな引き落としになっているのに、どうして自分だけ現金で毎月払いにいくのか聞きました。「お金を自分で払うとありがたいと思うでしょ。ウチはこのやり方だけん」と言われ、自営業の家庭で育った私は妙に納得しました。それ以上に、その特別感がむしろプライドになったりもしていました。 旧松江南高校は職員玄関の横に事務員室があり、そこの受付の小さい窓をあけて「すみませーん」と事務員さんを呼んで、その月謝袋を差し出すと、余り使われてなさそうな「領収」の印をドンと押してくれました。月謝を支払う自分以外の生徒の姿を3年間一度も見ることはありませんでした。他に誰かいたのでしょうか? そんな理由で授業中に先生に出席簿で叩かれたりすると「お金払って叩かれるか?」と思ったり、居眠りを注意されると「先生の方にも改善点があるのでは無いでしょうか?」、「このままこんな学習をしていていいのだろうか?」などなど。考えだけは理屈ありきの生意気な学生になってしまっていました。
さて、お金を払うということは受け取る側と支払う側の契約行為のようなものです。私も商売に携わっています。毎日がこの契約行為の連続です。今はモノの値段がどんどん安くなって、値付けが大変です。その中で売上増、利益増をできるように日々考え続けています。そんな努力を続ける中、再び消費税が上がることが決まりました。
あまり店が繁盛していなくて、商品が売れていない。会社のキャッシュフローが上手くまわらない。だから商品の値段を上げよう!とは決してならないですよね(笑)、我々は。消費税増税がそのような判断でないことを切に祈ります。
また、いつの頃だったでしょうか?プライスを税込表示に義務付けられたのは。消費者心理として知らぬ間に税金を徴収されている方が本当にいいのでしょうか?私はそうは思いません。所得が増え、人口が増えていっている段ならまだしも、見えざるが如きの税金の徴収は払う側の義務感も受け取る側の責任感も希薄にさせてしまいます。もちろん、払うものは少ない方がいいのは間違いありませんが、今や国民は「払いたくない」とは思っていないと感じます。「払ったらどう良くなるのか明確にしてくれ」と思っていませんか?
月謝の現金支払いの話しに戻ります。当然の仕組み、効率的な仕組みの中の非効率な視点により、私は思わぬ感性を持つことができました。そう、お金の教育をうけたのです。当然が溢れる世の中、効率化が溢れる世の中。しかし、だんだん幸せでなくなっていませんか? 「お金を自分で払うとありがたいと思うでしょ。」
シンプルな心の声を今一度聞きながら、明日からも経済活動に汗を流したいと思います。