天才
天才とは「天賦の才能を持った者」
らしき、文字構成。 確かにいたよな~、天才。でも、彼は今でも天才か?今、天才じゃなくなっていたら、それはそもそも天才じゃなかったってことか! 随筆家ジョン・フォスターによっれば「天才とは人間の内なる情熱の炎を燃え立たせる力である」と言っています。
フランスの博物学者ビュフォンは「天才とは忍耐なり」と言っています。
天才とは
居る者でなく、成る者ということ
そして、天才になるには
忍耐は不可欠な要素である
が
忍耐を忍耐のために使わないこと
(忍耐を忍耐のために使うのは美徳みたいに思われていますが・・・)
忍耐を明確な目標、つまり成功のために使うこと
まとめると、
天才とは
「天才はなれるものと認識し、成功のために揺るぎない忍耐を持ち合わせた人」
みなさんは何の天才になりますか?
2つの土産を持って帰る
冬空の合間に、晴れの日が続くと本当にありがたく思います。
SOLLUXよ、ありがたや。
読書は心の食事と言われますが、意味ある文章からは未だに目からウロコの発見がザックザグです。死ぬまでそうだと思うと、食べる楽しみ同様、心の食事が楽しみになります。この心の食事にすらワインってよく合うんだから、ワインのマリアージュの幅は止むことを知りません(余談)。
モヤがかかっていた状態がクリアになり、ある真理を手中に収めたかの気になり、心がパワーを発します。
「ある真理」に気付くことはとても素敵ですが、いつの間にか「ある真理」の意味は薄れてしまって、また元の自分に戻ってしまう。大袈裟に言うと開いた悟りが閉じてしまうようなことってよくあります。
そうならない方法を編み出してやろうと躍起です(笑)。
ある真理に「お!」と思うということは、反対に必ず固定化された概念が存在すると思います。
「真理」は自分を中心に軌道を回っているようなものなので、その真理とバランスをとっている「反対側の概念」も明確にすることが、真理を衛星として飛ば
夢見るおつむ
「夢見る乙女」はカワイイですが、「夢見るおつむ」は厄介です。
かくいう私も「夢見るおつむ」の持ち主でした。 京セラ創業者、稲盛さんが「まず思う」ことの大切さをおっしゃっています。 松下幸之助さんの講演に稲盛さんが参加された際、有名な「ダム式経営」の話しになり、参加者から「ダム式経営には共感するが、どうしたらダム式経営ができるのか?を聞きたい」と質問があったそうです。 その時、松下さんは「そんなもんは分からんが、そうなるように思わなきゃダメですな」と答えると、「答えになってない!」と参加者が失笑。その中、稲盛さんは「これだ!」と感じ「まず思う」ことの大切さを訴え始められたという話しです。 松下さんが言われたのは「まず思わなければ、そうはならない」ということ。これがないとスタートも切れない。これこそ根源的真実であり、我々が抱える大きな障壁です。私も自分が気付いたかの如く「これだ!」と思いました。 ここまでをいい具合に解釈して、「思う」ことを私は情熱の根源にしてきました。
でも、そんなに簡単にことは運びません。「思えば叶う」かのごとく妄想で頭が
思い出すのです
以下、文章は2年前のブログに書かせて頂いたものの再掲載です。同窓会などのシーンを店舗でたくさん目にするからでしょうか?年始によく思い出す、高校時代の話しです。
思い出すのです。 高校生の頃、私の母は授業料を毎月私に手渡しで渡してくれていました。クラスの友達はみんな引き落としになっているのに、どうして自分だけ現金で毎月払いにいくのか聞きました。「お金を自分で払うとありがたいと思うでしょ。ウチはこのやり方だけん」と言われ、自営業の家庭で育った私は妙に納得しました。それ以上に、その特別感がむしろプライドになったりもしていました。
旧松江南高校は職員玄関の横に事務員室があり、そこの受付の小さい窓をあけて「すみませーん」と事務員さんを呼んで、その月謝袋を差し出すと、余り使われてなさそうな「領収」の印をドンと押してくれました。月謝を支払う自分以外の生徒の姿を3年間一度も見ることはありませんでした。他に誰かいたのでしょうか?
そんな理由で授業中に先生に出席簿で叩かれたりすると「お金払って叩かれるか?」と思ったり、居眠りを注意されると「先
未来を創る姿勢
みなさま、明けましておめでとうございます。本年も変わりませずよろしくお願いいたします。
お正月、大いに「夢」を語られたでしょうか?
夢というのは、未来にむけてのワクワクするイメージですが、いいですよね!夢。
当社の企業理念中の言葉
「高揚」=ワクワクで生きる力を発動させよ。人間エネルギーの源。
と言っていますが、夢は積極的姿勢を確立させてくれます。
感情という予測不能な風が吹く気象状況の下、この「積極的姿勢」を忘れないことの大切さも、哲学者の中村天風さんは毎度説いておれれます。たとえ死が迫る病中だとしても。なるほど。
昨年の年末から、会社のメンバーに
「言う」「聞く」という行為を「する(実行する)」ということを前提に行おう。
と声をかけてきました。いつものことながら、自分への戒めも込めて。
このことは「積極的姿勢」を保持し、「夢」をかなえることに極めて重要な技だと感じるのです。
「言う」
言い訳してませんか?論破するだけに使っていませんか?その言葉、責任背負っていますか?
「聞く」